謝花昇① (県民の自由を求め、戦った男)
2015年12月10日
こんにちは、ブログ担当の仲宗根です。今日の沖縄は朝から不安定な天気。とはいえ、たくさんの仕事は待ってはくれません。気持ちだけでも晴れやかに頑張りたいものです!
さて、今日は琉球史に残る偉人の一人を紹介しましょう。沖縄自由民権運動の父と言われる男・謝花昇(じゃはなのぼる)です。
幕末の動乱を経て設置された明治新政府により、1871年に行われた廃藩置県。当初は北海道を除く3府302県もありましたが、そこから統合などを繰り返していきます。琉球は他府県より少し遅れて1879年に「沖縄県」が設置される事になります。
そして沖縄県設置からしばらくは、県知事に沖縄県外の人間が就任する事になります。明治政府から任命された人物が県知事になっていたのですが、沖縄県民には選挙権が与えられなかったため、県民は自らリーダーを選ぶ事が出来ませんでした。
正義感の強い沖縄の東風平(こちんだ)出身の謝花昇は、県民の参政権を求めて戦う事になります。では、彼の生い立ちを少し覗いてみましょう。
謝花昇は若い頃から勉学に秀でていた男で、10代の頃、現在の東京大学農学部にあたる東京山林学校に農学を学ぶために留学しました。沖縄県初の県費留学生だったので、かなり優秀だった事がわかりますが、大学での成績もかなりのもの。
あまりにも優秀だったため、先生からは「東京に残らないか?」と言われたそうです。「沖縄の発展のために尽力したい」と、彼は卒業後に沖縄に戻り、県庁技師という役職に就く事になります。県庁技師というのは、当時の国家公務員の事なので、本当に非常に優秀な人物だという事がわかりますね。
謝花昇が県庁に務めて1年後、鹿児島出身の奈良原繁(ならはらしげる)という男が明治政府の任命により、沖縄県知事となりました。奈良原は旧薩摩藩士、1892年から16年という長い年月を県知事として務めあげた男で「琉球王」の異名を持つ人物です。
奈良原は学校を作ったり、港を整備したり、沖縄も本土と同じような形にしていく事業を行いました。そして1894年、困窮する旧琉球士族に山林を売却する事案を計画しました。
当時の山林は農民達にとっては命とも言うべき存在でありますが、明治政府による改革により「旧士族達をどうするか?」というのが全国的に問題になっていたという背景もあり、謝花昇はこの計画が持ち上がった当初、その計画に賛同していました。
そこで謝花昇は自ら先頭に立ち、反対する農民達の説得にあたりました。
ところが… 実は奈良原県知事の立案したこの計画には、裏があったんです。表向きは「困窮する旧琉球士族達に山林を分け与える」でしたが、実際の売却先は薩摩商人や本土の貴族達でした。
「話が違う!」と激怒したのは、もちろん謝花昇。自ら農民達に「琉球のため」と説得したのに、農民の糧となる山林を県外の人々へ売却してしまったのですから、謝花昇でなくとも怒るのは当然です。
貧しい農家の生まれの謝花昇だったからこそ「一般庶民の暮らしをよくしたい」という気持ちが強かったのでしょう。履歴書に「平民 謝花昇」という記述がある事から、その気持ちが強かった事が推測できます。
しかし当時の沖縄県民には参政権がないため、自分達のリーダーを自ら選ぶ事すら出来ません。この状況の中、謝花昇は沖縄の自由民権のために立ち上がる事になります。
彼の戦いは次のブログへと続く事にしましょう。
ちょっと個人的な話。大河ドラマが好きな私ですが、次の放送で「花、燃ゆ」は最終回となり、少し寂しい気持ちです。来年は堺雅人主演の「真田丸」という事で、戦国でも人気の真田信繁(幸村)の活躍が今から楽しみですね。
さて、年内にやらなければいけない仕事がた~くさん! 天気が悪くても、頑張って働きます! 社会に貢献します!
それでは、次回「謝花昇② (県民の自由を求め、戦った男)」で、お会いしましょう! 今回はこの辺で。
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