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琉球最初の国王

2022年12月13日

こんにちは、マルキヨ製菓広報担当の仲宗根です。朝7時前に起床した時は曇り空でしたが10時頃には青空が広がり、気持ちのいい晴れの天気となっています。今日なら洗濯物もしっかり乾いてくれるかなと思います。

 

ただ、最高気温は21度なので、沖縄としては低い方。現時点で明日は予想最高気温20度ですが、明後日は24度まで上がるみこみ。しかし日曜日は最高気温17度、最低気温12度と今年度一番の冷え込みが予想されています。

 

金曜日は24度まで上がるのに、2日後の日曜日は12度まで下がる寒暖差の激しい日が続くので、体調を崩さないよう温かい飲み物を飲むなどして体調を整えていきましょう。

 

さて、今日は琉球史に登場するある人物についてお話ししてみたいと思います。

 

琉球の国王と言えば?

皆さんは「琉球の国王は?」と聞かれた時、誰を思い浮かべますか? おそらく「尚巴志(しょうはし)」と答える人が多いのではないかと予想します。

 

戦国時代の琉球で、南山・中山・北山を統一した英雄として知られ、第1尚氏王党の礎を築いた人物です。「尚巴志マラソン」など、いくつかのイベントにも名前が見られ、尚巴志ゆかりの地も沖縄にはたくさんあります。

 

沖縄ではドラマ化もされており、数ある琉球国王の中でも最も知名度が高いのが尚巴志なんじゃないかなと思います。

 

他にも第2尚氏王党の初代国王である尚円王(こちらもドラマ化もされています)や、護佐丸 阿麻和利の乱の戦乱期に国王を務め、万国津梁の鐘を鋳造させた事でも知られる尚泰久王あたりが知名度高いかなと思います。

 

では、琉球最初の国王と言えば誰でしょう? 尚巴志ではありませんよ。ちなみに尚巴志は第一尚氏王党の第2代国王で(初代は父親にあたる尚思紹王[しょうししょうおう])あり、琉球最初の国王というわけではありません。

 

尚巴志が三山を統一する前にも、王を称する人物はいました。では、琉球史の中で最初に現れた国王は誰でしょう?

 

17世紀に編纂された史料『中山世鑑』によれば、琉球最初の王党は天孫氏(てんそんし)という記述があります。

 

1万7800年も続いた王党?

『中山世譜』によると、天孫氏王党は何と1万7802年も琉球を統治していたそうです。この間で25代の国王がいたそうですが、単純に国王は1代平均で712年統治していた計算になります。

 

さすがに1代で700年以上も国を統治したというのは「ありえない」だろうという事で、「天孫氏」は後世の王の起源を意味づけるために創りあげられた神話時代の王党とされています。25代の国王に関しても、その名前の記述はありません。

 

では、「存在が確実視されている琉球最初の国王は誰なのか?」という話になるのですが、実のところ正確にはわかっていません。これから紹介する舜天王は琉球として最初の国王と言われることが多いのですが、その存在は「否定できない」という曖昧な言い方にとどまります。

 

実は彼の存在を確実にする史料は全く残っておらず、彼を祖とする舜天王党ですらその存在は不明です。ただ、いくつかの史料から間接的にその存在を完全否定する事ができないとされており、いわば「幻の国王」という扱いになっています。

 

そんな舜天にはどのような記録が残っているのか、チェックしてみましょう。

 

源為朝

『中山世鑑』や『中山世譜』という史料によれば、舜天の父は「鎮西八郎為朝公」という記述になっています。「鎮西八郎為朝公」は「源為朝(みなもとのためとも)」の事であり、彼に関しては以前ブログで書いた事があります。

⇒【源為朝①

⇒【源為朝②

⇒【源為朝③

 

源為朝は1156年の保元の乱にも登場する源氏側の武将で、かなりの豪傑だったようです。

 

保元の乱は、自分の子どもを天皇にしたい崇徳上皇と、現天皇である後白河天皇(崇徳上皇の弟)による皇位継承騒動のこと。崇徳上皇側についた源為朝とその父・源為義(みなもとのためよし)ですが、後白河天皇側についた平清盛らに敗れてしまいます。

 

身長は2mを超え、弓の名手だったといわれる源為朝は討伐対により32歳の若さでこの世を去ったと言われていますが、『中山世鑑』によると琉球まで逃げ延びた事になっています。

 

彼がたどり着いたといわれる運天港には「源為朝、上陸の碑」があり、琉球で子どもをもうけた後、再び活躍の場を求めて本土へ渡ります。彼が旅立った場所は琉球に遺された妻子が「待ち続けた港」から「マチナト」と呼ばれるようになりました。

 

それが、現在マルキヨ製菓のある「牧港」です。源為朝が琉球にたどり着いた事は史実と異なる伝説と言われていますが、彼が琉球でもうけた子どもの名前は尊敦(そんとん)で、その子が後の舜天王となるのです。

 

舜天王

尊敦は幼少期から色々な面で秀でていました。15歳になると周りの人の推薦により、浦添の按司(あじ)[地域を治める長]となります。

 

ここで話は、幻の「天孫氏王党」に戻ります。25代で1万7802年も琉球を統治していた王党ですが、第25代国王は臣下であった利勇(りゆう)に裏切られ、毒殺されました。これは尊敦が22歳の時の出来事です。

 

謀反により新国王となった利勇は中山王を名乗り、わがままな政治をしいたため民衆からは嫌われていました。各地の按司達は利勇をどうするべきか相談し、白羽の矢を立てたのが尊敦です。

 

尊敦は利勇を打倒すべく父の形見となった鎧や兜を身につけ、父の特技であった弓を手に持ち、出陣しました。周りから信頼の厚かった尊敦の元には「打倒利勇」の兵が各地から集まり、尊敦は連合軍の大将として利勇を討ち取りました。

 

周りの推挙により、尊敦は22歳の若さにして中山王として即位し、その名を舜天としました。即位後、舜天王は自ら各地を周り、人々の意見に耳を傾け、琉球が豊かになるような政治を心がけたと伝えられています。

 

以上が史料に記載されている「尊敦が国王・舜天王になる経緯」です。一代平均700年統治した天孫氏王党は常識的に否定されていますが、舜天王は「完全には否定できない」という事で「琉球最初の国王」と言われます。

 

ただ、後世の国王に対し「源の血脈である」という正当性を主張するための作り話という意見が多く(他の武将でも見られる)、舜天王もまた「実在しない幻の国王」という意見の方が強いと言えるでしょう。

 

舜天王党は3代73年間続く事になりますが、3代にわたって実在を確実視する史料はありません。果たして舜天王は存在したのか。信じるか信じないかはあなた次第です。

 

迫り来るムーチー

12月30日、ムーチーという大きな行事がやってきます。すごく大きな行事ですが、1つ1つの餅をカーサで包む作業の過酷さに、行事から撤退する業者も年々増えています。

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今回のムーチー、マルキヨ製菓は過去最大数の注文が入りました。前回もかなりギリギリでしたが、それ以上に今回ギリギリです。タイトなスケジュールに、スタッフ一同悲鳴を上げているところなのです。

 

なんとか沖縄の皆さんがいい形で行事を迎えられるよう頑張っていますので、行事の時はマルキヨ製菓をよろしくお願いします。

 

今回はこの辺で。

 

平日は毎日更新。Facebookもよろしくお願いします。

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