儀間真常(ぎましんじょう)①
2015年11月2日
こんにちは、ブログ担当の仲宗根です。11月になりましたね。沖縄の気温もようやく25度を切って、涼しさを感じるようになりました。とはいえ、名護の方では、まだまだセミが元気に鳴いている沖縄です。笑
さて、みなさんは「サツマイモ」は、別名「琉球薯(りゅうきゅういも)」と言われているのをご存じでしょうか? 実はこの「サツマイモ」、琉球から鹿児島(薩摩)に伝わり、そこから日本中に広まって「サツマイモ」と言われるようになりました。
今回はサツマイモにまるわるお話です。
サツマイモを日本全国に広めた事で有名なのは、青木昆陽(あおき こんよう)という江戸時代の学者です。時は8代将軍、徳川吉宗の時代。当時の日本では、大規模な害虫発生などによる「享保の大飢饉」と呼ばれるな深刻な飢饉が発生し、多くの人が餓死したと言われています。
幼い頃から学問を志して、時の町奉行・大岡忠相(おおおかただすけ)に認める程出世していた青木昆陽は、サツマイモは、荒れ地のやせた土地でもたやすく栽培できるという利点があり、それが飢饉時の非常食として最適であると考えました。その旨を幕府に進言し、将軍・吉宗からサツマイモの栽培を命じられました。
青木昆陽は、サツマイモの栽培の研究・普及を行い、その後に起こった天明の大飢饉時には、サツマイモによって多くの人を餓死から救ったと言われています。
当時はサツマイモの事を「甘藷(かんしょ)」と言い、青木昆陽はその功績により「甘藷先生」という名前で親しまれるようになった… とまぁ、ここまでは日本史好きなら、聞いたことのある話でしょう。
甘藷(かんしょ)は、薩摩(当時の鹿児島)から取り寄せ、そこから全国に広まる過程で「サツマイモ」という名前が普及しました。しかし、そのサツマイモは琉球から薩摩に伝わったものなのです。
琉球の真和志(まわし)で、儀間真常(ぎましんじょう)という男が生まれたのは1557年(青木昆陽は1698年生まれ)。地頭の家に生まれた彼は、若い頃から熱心な仏教信者でした。
当時の琉球は作物の収穫高が低く、数少ない収穫も年貢として搾取されていたため、平民は常に貧しい状態でした。特に台風や干ばつなどの天候不順が起きると、作物が取れなくなり、多くの餓死者を出していました。
やがて地頭になった儀間真常は、どうにかして農民の貧困を解消できないかを模索し始めます。ある時、野国総監(のぐにそうかん・野国出身で本名は不明)から、中国から持ち帰ったというイモを紹介されました。
台風や日照りの時でも栽培でき、さらには甘くて美味しいという事で、儀間真常は時の琉球国王・尚寧(しょうねい)王に「サツマイモの栽培を奨励してはどうか」と進言。
国王から了解を得た儀間真常は、沖縄の風土にも合う栽培や繁殖方法を研究し、見事に栽培法を確立。そして、その栽培法を沖縄中に広めました。こうして台風や干ばつなどの天候不順の時であっても、サツマイモのおかげで餓死者が激減。
この「琉球芋」は、やがて薩摩(鹿児島)へと伝わり、そこから全国に広まる過程で「サツマイモ」という名前も広まった… というわけです。
この儀間真常のお話は、まさに青木昆陽のそれと同じですよね。ちょっと調べてみましたが、「サツマイモのルーツ」を辿ると、フィリピンに行き着くそうです。
フィリピンから中国、中国から琉球、琉球から薩摩、そして日本全国へ。伝わる過程では、その土地その土地の風土や気候にあった栽培法・繁殖法が研究されています。
儀間真常の研究や、青木昆陽の研究があり、凶作の年でも多くの日本人の命が救われたというわけですね。
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実はこの儀間真常という人物は、琉球史においては他にも偉大な功績を残しております。琉球の重要な輸出品である「黒糖」や「琉球ガスリ」を製品化した事でも知られているのですが… その話はまたいつか。
今回はこの辺で。
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