橋にまつわる,悲しい伝説
2016年11月21日
こんにちは、ブログ担当の仲宗根です。すでに2017年のカレンダーが、いくつか届いています。個人的には、平成29年の日付が入る書類も、いくつか準備しており、2016年の終わりを感じ始めています。
さて、沖縄に住んでいる人に「沖縄にある橋といえば?」と質問したら…? 多くの人は「真玉橋(まだんばし)」と答えるのではないでしょうか?
那覇市と豊見城(とみぐすく)市の間らへんに、「国場(こくば)川」という川が流れています。その川にかかっている橋の1つが、真玉橋です。
この橋が建造されたのは、琉球王国時代の1552年。第二尚氏の第三代王である尚真王(しょうしんおう)が、首里から那覇の港、現在の奥武山公園あたりまで、軍事道路を整備しました。
その軍事道路の名前を「真珠道(まだまみち)」といい、「真玉橋」は「真珠道」の一部として組み込まれました。ちなみに「真玉橋」の名前にある「真玉(まだま)」とは、最も美しいものを形容する言葉です。
いわゆる「神に仕える」とされる【聞得大君(きこえおおきみ)】らが、その橋の建設に際して神聖な儀式を行い、さらに「真珠道」「真玉橋」の完成を祝った事を記した「真珠湊碑文(まだまみなとひもん)」という石碑が建てられました。
絶大な力を持ったとされる【聞得大君】が儀式を執り行い、完成を祝う碑文を残しているのですから、琉球国王としても「真玉橋」をそれだけ重要視していた事がうかがわれます。
「真珠湊碑文」は、首里城公園で見る事が出来ますが、それは沖縄戦で破壊されたものを2006年に復元したものとなっています。
1552年、木造で建築された「真玉橋」。第11代尚貞王(しょうていおう)在位時の1707~1708年の間に、石橋へと強化改築されました。しかしその石橋もまた、沖縄戦で破壊されてしまい、今度は米軍の手により鉄橋へと改築されました。
とまぁ、「真玉橋」のちょっとした歴史的なものをお話ししてきましたが、この橋にまつわる「悲しい伝説」も紹介しておきましょう。「真玉橋の人柱」と呼ばれる伝説を。
昔むかし、真玉橋周辺では日照りが続き、農作物に悪影響が及んだため、真玉橋に人柱を捧げようという事になりました。「矢を放ち、矢が刺さった家の娘を人柱にする」という選定法のもと、弓矢が放たれました。
するとその矢は、その選び方を進言した者の家に刺さり、いわゆる「言い出しっぺ」の娘が人柱になった… そんな伝説があります。
そして、おそらく同じ系統と思われる、有名な「七色元結(ななしょくむーてぃー)」という伝説もあります。
※ 元結(もとゆい、沖縄の言葉で「むーてぃー」)=髪をとめるもの
増水により何度も壊れてしまう真玉橋に困り果てる住民。付近に住むユタが「七色の元結をした女性を、人柱として埋めなさい。そうすれば、増水は収まる」という神のお告げを受けました。
その噂を聞きつけた役人は、「七色の元結を身につけた女」を捜索しますが、何と神のお告げを受けた本人が、七色の元結を身につけていたのです。
本人は「私の事ではない」と訴えるも、結局は「真玉橋の人柱」として埋められる事になりました。
埋められる際、その女性は自分の美しい娘に「あなたが幸せになるためには、人より先に話してはいけません」という言葉を遺したそうです。
一連の様子を見ていた村人たちは
「物ゆみ者や 馬ぬ さちとゆん」
(おしゃべり者は 馬の先を歩いて災いをまねく)
という言葉で、余計な事を先にしゃべらないよう、戒めにしたそうです。
なんとも悲しい話ですが… それ以降、国場川の増水する事はなく、真玉橋が壊れる事はなかったと言われています。
ちなみにこの「七色元結」の話には、まだ続きがあります。人柱となった女性の、美しい娘の後日談なのですが… この話はまた、別の機会にとっておきましょう。
今日は朝から雨が降っている沖縄。もの悲しい伝説を反映しているかのようです。今年も残り50日をきって、仕事も忙し時期にさしかかっています。仕事に追われないよう、コツコツ頑張っていきたいと思います。
今回はこの辺で。
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