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首里城を救った男:鎌倉芳太郎①

2019年08月22日

こんにちは、マルキヨ製菓広報担当の仲宗根です。昨日から気持ちよく晴れている沖縄です。朝、天気がいいと仕事もテンション上げて取りかかれます。

9082101bこちらは昨日のお昼の写真。あまりにも天気がよく、思わず写メってしまいました。

 

さて、今回のブログは人物伝。沖縄の誇る観光名所であり、世界遺産でもある首里城。その首里城を救ったと言われる人物(県外出身)を紹介します。

 

鎌倉資料

 

昭和47年、西暦で1972年は沖縄が本土に復帰した年で、この年に産まれたウチナーンチュは「復帰っ子」と呼ばれています。

 

首里にある龍潭(りゅうたん)池の近くに、当時は博物館があり、1972年2月、「50年前の沖縄写真展」が一般公開されました。

 

そこに展示されたのは「鎌倉資料」と呼ばれるもので、鎌倉芳太郎(かまくらよしたろう)という人物の撮影した写真や、彼の作成した膨大な資料が多数公開されたのです。

 

ご存じの通り沖縄は先の戦争における地上戦の舞台となり、多くの資料や史跡が失われる事になりました。

 

「50年前(1972年当時)の沖縄写真展」では、鎌倉芳太郎の撮影した戦前の沖縄のいろいろな建造物や工芸品が公開されており、それを見たウチナーンチュは「かつての沖縄には、こんなに素晴らしいものがあったのか」と、みんな驚いたそうです。

 

鎌倉芳太郎とはどのような人物で、どんな資料を残したのでしょうか?

 

鎌倉芳太郎

 

鎌倉芳太郎が生まれたのは1898年(明治31年)、香川県に生まれました。大正10年(1921年)、23歳の時に美術教師として沖縄女子師範学校に赴任する事になります。

 

沖縄独特の芸術や文化等に感動した鎌倉芳太郎は、あらゆるものを文章やスケッチで記録しただけでなく、琉球の建物や工芸品など、多くの写真も撮影しました。紅型(びんがた)の収集や、さらには琉球の文献を書写するなど、精力的に琉球に関する資料も編集。

 

写真は1229点が現存。紅型(びんがた)に関する資料は型紙が約1400点、裂地(きれじ・織物)が約1000点など、総数にして7512点を残しており、鎌倉芳太郎ほど(当時の)琉球を観察し記録した人物はないとまで言われています。

 

後に沖縄戦で多くのものが失われる沖縄にとって、鎌倉芳太郎の写真や資料はたいへん貴重な物になりました。

 

戦後、沖縄はアメリカに統治される事になります。復帰した年に展示された鎌倉芳太郎の写真や資料を見て、沖縄の人達はかつての沖縄にはどんな物や文化があったのかを知る事になったのです。

 

沖縄県立芸術大学には、彼の大学ノートが保管されいます。大正時代に、彼が琉球の文献を書き写したものであったり、工芸品のスケッチなどが記されており、非常に貴重な資料となっています。大学ノートそのものが国指定の重要文化財となっているというのも驚きです。

 

そして鎌倉芳太郎は紅型の技術を継承し、1973年には重要無形文化財「型絵染」の保持者として人間国宝に指定される事にもなります。

 

首里城を救った男

 

大正10年(1921年)に沖縄に来た鎌倉芳太郎は、琉球芸術を研究し、資料の収集や琉球の建築物や工芸品などの撮影をしました。大正12年(1923年)4月、彼は東京美術学校研究科(美術史研究室)に入学します。

 

独自に集めた琉球研究資料を同校の校長に提出し、その校長の紹介で東京帝国大学の伊東忠太教授の指導を受ける事になりました。伊東忠太は明治神宮や湯島聖堂等の建築に携わった事で知られる建築家ですが、鎌倉芳太郎は彼と共に琉球の研究を続けていきます。

 

大正13年(1924年)4月、伊東忠太と共同研究という形で、琉球芸術調査事業のための補助金を受ける事になり、鎌倉芳太郎は東京美術学校助手として、沖縄に調査出張へ赴きます。

 

尚候爵家を始め、首里や那覇の名家の所蔵品を調査し、撮影も行いました。最初の調査を行った鎌倉芳太郎は、一度東京へ戻るのですが、その時に驚くべき新聞記事を目にしました。

 

首里城が取り壊しになる。その記事を目にしたのが土曜日でした。そして、その解体工事が行われるのが2日後の月曜日というのですから、本人は相当びっくりしたようです。

 

鎌倉はすぐに伊東忠太に連絡します。伊藤は当時の政府にもコネクションがあり、すぐに内務省へ「首里城は非常に文化的な価値があるもので、けして取り壊してはいけない」と強く訴えました。

 

結果、無事に首里城解体は取りやめとなり、翌年の大正14年(1925年)、首里城正殿は国宝(当時は特別保護建造物)に指定される運びとなります。

 

鎌倉芳太郎が「首里城取り壊し」の記事を目にしたのは東京です。あの時、彼がその新聞記事を目にしなかったら・・・。そして、伊東忠太という政府筋にもコネクションを持つ男と共同研究していなかったら・・・。

 

間違いなく首里城は取り壊され、今のように世界遺産となる事もなかった事でしょう。鎌倉芳太郎がいたからこそ、今日も首里城は多くの観光客で賑わっていると言っても過言ではないでしょう。

 

そんな鎌倉芳太郎ですが、彼は「首里城を2度救った男」とも言われています。首里城を2回目に救う話は、次回に持ち越すとしましょう。

 

夏休みもそろそろ終わり?

 

気がつけば8月も下旬。マルキヨ製菓は旧盆が終わったばかりで、少しだけ落ち着いて仕事ができています。ただ、来月は行事が3つやってくるため、嵐の前の静けさといった感じかもしれません。

 

昨日のニュースで言ってましたが、学生の皆さんはもうすぐ夏休みも終わり。ニュースの中で、インタビューされた親が「宿題が・・・」と言ってたのが印象的です。

 

「仕事も宿題も計画的に」ですね。宿題に追われている皆さん、マルキヨ製菓のお菓子をつまみながら、宿題をこなしてみてはいかがでしょう。糖分をとり、疲れた脳をケアしながら宿題をこなしていく。

 

やるべき事はしっかりやって、気持ちよく2学期を迎えましょう!

 

今回はこの辺で。

 

平日は毎日更新。Facebookもよろしくお願いします。

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