琉球八景 後編(解決編)
2015年08月3日
こんにちは、ブログ担当の仲宗根です。気が付けば8月ですね。暑い! ちょっと夏バテ気味な自分ですが、忙しい8月、頑張って乗り切っていきたいと思います。
さて、前回ブログで葛飾北斎の描いた「琉球八景」のミステリーを紹介しました。→【琉球八景 前編(ミステリー編)】
琉球を訪れたという記録が無いにもかかわらず、北斎は琉球… 那覇を中心とした8つの景色を描いています。琉球なのに
雪景色が描かれていたり、さらには
富士山が描かれているというミステリー。今回は何故、そういう景色が描かれたのか… その解決編です。
実はこれらの絵、18世紀の清の冊封使・徐葆光(ジョホウコウ)が琉球に来て、その時に読んだ8つの詩が元になっているのです。
清の皇帝が新しい琉球国王を任命するため、徐葆光を冊封使として琉球に派遣します。約8ヶ月琉球に滞在したと言われる徐葆光は、沖縄の料理や伝統芸能にふれ、かなり感銘を受けたと言われます。
そして彼は、琉球のすべてを描写するべく、多くの記録と漢詩集を書き綴りました。その中でも琉球の8つの景色を記録したと言われる「院旁八景」が、後に北斎の絵へと繋がる事になります。
例えば「泉崎夜月」という漢詩。
明月送潮來 橋上不知暮 遙見渡頭人 紛紛厭西去
「自分のいる場所は故郷とは違うけれど、月の姿は変わらない」という気持ちを詠った詩です。遣唐使の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)も似たような歌を詠んでいますよね。徐葆光は那覇にある「泉崎橋」から月を見て、この詩を詠ったのでしょうね。ちなみにその泉崎橋は、沖縄戦で失われてしまいました。
さらに1756年、清から琉球へ来た冊封使・周煌(しゅうこう)が、琉球の見聞録として『琉球国志略』という書を著しました。その書物の挿絵に「中山八景」というのがあり、これは徐葆光の「院旁八景」を元にして描かれています。例えば、先の「泉崎夜月」という徐葆光の漢詩ですが、中山八景の1つに
「泉崎夜月」があります。上の写真がそうなんですが、北斎が描いた「琉球八景」の同名のタイトル
「泉崎夜月」には、月が加筆されている事がわかると思います。これは徐葆光の漢詩に「月」が読まれている事から、北斎が新たに描いたのです。
「雪」や「富士山」なども、「中山八景」には描かれていませんが「琉球八景」に描かれています。まぁ、北斎の「訪れた事のない琉球」に対する遊び心というか、イマジネーションの産物なのでしょう。
ちなみに「泉崎」は那覇市内にある地名で、泉崎だけでなく徐葆光が漢詩に詠んだ各場所には、記念プレートが設置されています。
清から訪れた冊封使・徐葆光が琉球の景色を漢詩に残し、後の冊封使・周煌による琉球見聞録「琉球国志略」の中でそれらの景色が描かれ、さらにはそれらの資料をもとに、北斎が「琉球八景」を描いた。事の真相は、そういう事なのです。
薩摩藩による琉球への侵攻の後、琉球国は薩摩藩の支配下に置かれると同時に、中国とも冊封関係にありました。「冊封」とは中国の周辺国が国王をたてたい時、中国皇帝に貢物を捧げる事で自国の王を認めて貰う関係の事を言います。
徳川幕府と中国との間で揺れ動く「琉球の微妙な立ち位置」が「北斎の琉球八景」に繋がったと言えるでしょう。もし、よろしければ「琉球八景 画像」で検索して見て下さい。北斎の描いた琉球の画像を見る事が出来ます。
さて、今月は「旧盆」があります。という事は、その前に「旧の七夕」があるという事です。これらの行事については、また時期が近づいたらくわしくお話ししましょう。
次回は、ホームページを見た人だけが得する、あるキャンペーンの告知をしたいと思います! トップページを見ればわかるのですが…
今回はこの辺で。
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